
幸徳秋水
Wikipediaより引用 2008/5/23 |
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幸徳秋水(1871〜1911)
中村の豪商「俵屋」に生まれた秋水は少年時より自由民権運動に共鳴し、その理論的指導者であった中江兆民の書生となり、深い影響を受けた。板垣退助の「自由新聞」を振り出しに新聞記者となった彼は、鋭い論調と際立った文才で明治期を代表するジャーナリストとなってゆく。その後、わが国社会主義運動黎明期の指導者として活躍、「平民新聞」を足場に日露戦争に反対、非戦論をつらぬき通した。これに対して山県有朋を中心とする藩閥権力は敵意をむき出しにし「大逆事件」で秋水ら12名を処刑した。著書に『廿世紀之怪物帝国主義』、『社会主義真髄』、『兆民先生』などがある。
四万十市中村山手通りの正福寺墓地に幸徳秋水一族の墓がある。 ”大逆事件” 秋水に対する官憲の介入は厳しく、その葬儀は日が落ちてから親族のみで行われ、遺骨は夜陰にまぎれてこの地に埋められたという。現在は刑死した1月24日に秋水を慕う人々によって、おごそかな中にも盛大な墓前祭が毎年行われている。
尚、幸徳秋水絶筆の碑が四万十市中村の為松公園に立っている。明治44年1月18日死刑判決を受けて獄舎に帰ってきた秋水が担当の看守の求めに応じてかき与えたのが、碑に彫られている漢詩だという。死刑判決直後にもかかわらず、その字にはいささかの乱れもない。(土佐の「小京都」中村から引用) |