教房の幡多下向
教房の幡多庄下向の目的が何であったかを明らかにした史料を知らないが、次のような事が考えられる。戦乱を避けるためでなければ、何も遠い土佐まで行くことはあるまいから、戦乱によって畿内や付近の荘園からの年貢が入らなくなって、苦しい一家の経済を少しでも豊かにするために、有名無実となっている幡多庄を回復して、荘園としての実績を挙げようとしたのである。それにしても、京都を離れることも稀な最高の貴族が、畿内あるいはその近傍なればともかく、本州と離れた四国の島、それも太平洋の荒波打ち寄せる土佐西南の辺境へ下るというのであるから、並々ならぬ決意といわなければならない。しかも目指す幡多庄も平穏とは限らず、多少の反抗を覚悟しなければならない。武力を持たぬ公卿だけの力ではとうてい不可能な事であった。だが教房の場合は幸いにも土佐の有力武将の協力があった。(中村市史より引用) |