房基は大永2年(1522)伏見宮玉姫を母として生まれ、享禄3年(1530)9歳で従五位下、同5年侍従、右近衛中将に任じ、天文9年(1540)従三位、非参議。翌10年には阿波権守を兼ねたが、この年は父房冬が祖父房家のあとを追うように死んでいる。この祖父、父の相次いでの死は20歳の房基には大きい打撃であった。国内豪族たちの一条氏軽視の色が濃くなって来たのである。先ず高岡郡の津野基高が反抗の態度を示したので房基は意を決し、天文12年(1543)7月基高攻撃の兵を発したが、津野勢は大いに防戦につとめ、勝敗は容易に決しなかった。その後も、攻防戦を繰りかえした末、天文15年(1548)8月、ついに基高を降伏させ、その勢いで基高に味方した大平氏の蓮池城をも奪った。一条氏の優勢に付近の諸城主も摩下に入り、高岡郡はすべて一条氏の勢力圏となった。
しかし、翌16年には長岡郡岡豊城主長宗我部国親が、一条氏の属城である同郡の大津城を攻め取った。既述べたように国親は幼時、房基の祖父房家に保護せられ、父の旧領に返してもらうなど、一条氏には並々ならぬ恩義がある。それだけに房基の激怒が思いやられる。しかも、国親の勢力は日に日に強大になっていく。
そうした国内の不安な状勢に加えて、隣国伊予とも風雲急なものがあった。房基の妻の父である豊後の大友義鑑は天文15年以来、しばしば伊予侵略のため襲来したが、伊予勢の防戦は頑強で容易に目的を果たすことができなかった。大友軍を応援して出兵した房基と伊予諸将との反目となったのはやむを得ない。 そのような不穏な世情のうちに、天文18年(1549)28才の房基は自殺した。その死は狂気のためと伝えられているのは哀れである。
光寿寺殿三品中郎将香叔と贈り名して中村光寿寺に葬る。位牌が太平寺に安置され手居るのは光寿寺廃寺後、移されたものである。(中村市史より引用) |
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| 一条房基供養墓 |
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