小京都 四万十市 歴史 一条教房 一条房家 一条房冬 一条兼定 幸徳秋水  by-中村ソーイング
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 小京都中村関連年表
 一条教房(土佐一条家開祖)
 一条房家(初代)
 一条房冬(二代)
 一条房基(三代)
 一条兼定(四代)
 一条内政(五代)
 一条政親(六代)
 一条神社
 玉姫の墓
 咲かずの藤
 御化粧の井戸
 大文字の送り火
 奥御前宮
 東山
 鴨川
 京町
 桜町
 紺屋町跡
 たて町跡
 よこ町跡
 小姓町
 中村城跡
 須賀神社(祇園さん)
 正福寺跡
 東ノ城跡
 為松城跡
 中村山内家屋敷
 中村城跡の石垣
 中村目代跡
 西小路氏土居跡
 樋口真吉邸跡
 木戸明塾跡
 幸徳秋水
 安岡良亮邸跡
 行余館(藩校跡)
 遠近鶴鳴生家跡
 中村貝塚
 「東城」「為松城」「御城」
 地検帳では、「爰ヨリ御城」として、「東城」「為松城」「御城」が記されている。後世の古城山の「城」は、又は一般に言う「中村城」は、以上の3城にまとめられる。
 「東城」は、山涯の西小路御土居の上、現武道館上方の「三の丸」といわれている所と思われる。一条氏の一族西小路氏の居城といわれる。
 「為松城」は「東城」の西北で、本丸、二の丸(資料館の場所)といわれている所で、一条氏の家老(長元記など)為松氏の居城であっただろう。
 「御城」「今城」の地は、宅地造成、中村高校グランド造成等を目的とする開発事業にあたり、昭和58年発掘調査が行われた。その報告書によれば、この「城」は、16世紀前半から用を足し、中葉に完備され後半に及ぶとされる。(房家晩年から兼定まで)そうだとすれば、在国公家から公家大名(戦国大名)へと成長した一条氏が「山城」としての役割をもたせ、と築城したものだろうか。
 尚、検地時点では、前2城は畑と化し、「城」として機能しているのは「御城」のみである。
(土佐の「小京都」中村より引用)


一城神社境内にある
 中村御所館跡(左写真に書かれていること)
 天承17年(1589)の『地検帳』によるとこの丘陵が森山で維摩堂床がある。小山の東側に、お堀・北堀・寺院跡や小田つきの広い土地に建物がある。西側には、御土居が散田と登録され「居」の記載で家屋のあったことが知れる。御土居・御堀の敬称は長宗我部元親につけたものではあるが、東・西同じ地割の絵図範囲が土佐一条氏の『中村御所』跡と推定できる。
慶応2年(1468)前の関白従一位一条教房が幡多庄に下向から1世紀―。往時の華やかな公家文化と壮大な権勢が偲ばれる。昭和63年(1988)
 東ノ城跡跡右の写真に書かれていること
この城跡は中村城跡の城郡の一つで、一条氏一門の西小路氏の持城と考えられています。白は二区画に分かれていて、面積は約200平方米(約60坪)程度であったと思われます。16世紀後半には一条政権が滅び、西小路氏も中村を退去すると、城は荒廃し、山畠となりました。現在は地形が変化し、かっての城の城の面影はほとんどありませんが、わずかに土塁の一部が残っています。


東ノ城跡石碑


東ノ城石碑(為松公園に)


為松公園にある

一城神社参道にある


中村城出土品
四万十市資料館所蔵


中村城出土品
四万十市資料館所蔵


中村城出土品
四万十市資料館所蔵


維摩堂の在った森山
今の一条神社
(中村市史より引用)
中村御所
 先ず中村の核心であった一条氏の邸宅「中村御所」の所在を考えるために地検帖の一部を(・・・中略)右のうち「御土居」とあるが中村御所である。7反23大5歩(2,243坪 7,402平方メートル)とはさずがに広大な屋敷である。所在場所は御北少路とあるが現在の何町に当るか不明である。しかし、御土居の上の森山に維摩(ゆいま)堂床があるので大体の見当はつく。森山が一条神社々殿のある小山であることは間違いない。この小山は現在では本町1丁目11番地となっているが、それ以前は小森山という小字(こあざ)であったし、市中で山と呼ばれるものはこれ以外にない。
 ところで、この森山は伝説のように御所の構内にあったのか、あるいはまた御所のいずれの側にあったのか判らないのは残念である。いずれにしても中村御所は森山の麓にあったことだけは確実である。
(中村市史より引用)
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